【鑑賞にあたっての注記】
本記事は、20世紀初頭にアルフォンス・ミュシャが手掛けた歴史的・芸術的価値の高い美術作品
『スラヴ叙事詩』の鑑賞とその背景解説を目的としています。
決して、特定の国や地域、現代の政治・国際情勢に対する主張や論評を意図するものでは無い事を
ここに書き加えさせていただきます。
※本作は『原郷(げんきょう)のスラヴ人』が代表的な日本語題ですが、
書籍によっては『原位置のスラヴ人』『スラヴの原風景』の題名があります。
また、一般表記で『スラブ人』と記載されることもあります。
全20作品におよぶミュシャ渾身の超大作『スラヴ叙事詩』。
その記念すべき第1作目が、
この『原郷のスラヴ人(原題:Slované v pravlasti )』です。
縦約6メートル、横約8メートルという体育館の壁のような巨大なキャンバスに描かれているのは、
華やかさや栄光といったものはありません。
この作品を鑑賞する時、最初に視線が釘付けにならざるを経ない、
暗い草むらに隠れ、その不安な心の内がにじみ出た目をする男女の姿でした。
なぜミュシャは、壮大な歴史物語のスタートに「身を潜める人」を描いたのでしょう?
その緻密な構図と、作品に託された想いを読み解いてみたいと思います。
1. 作品の基本情報と全体像
| 項目 | 内容 |
| 作品名 | 『原郷のスラヴ人(スラヴの原風景)』 |
| 制作年 | 1912年(『スラヴ叙事詩』の中で最初に完成した作品) |
| 描かれた時代 | 3世紀〜6世紀頃(古代) |
| テーマ | 他民族の勢力拡大に圧迫される、古代民衆の過酷な日常と祈り |
画面全体は静まり返った夜の青(インディゴブルー)に包まれています。
手前には身を潜める男女、奥に赤く染まる村、そして夜空には幻想的に浮かび上がる人物たち。
異質な要素が1枚の絵に同居する、極めてドラマチックな作品ですね。

1912年『原郷のスラヴ人(原題:Slované v pravlasti )』アルフォンス・ミュシャ (パブリック・ドメイン)
2. 視線が吸い寄せられる!ミュシャ独自の「視線誘導」の技術
この巨大な絵を見るとき、私たちの視線はどのように動くでしょうか?
パリ時代に数々のポスターで一世を風靡したミュシャ。
その卓越した「見る人の視線を自然と惹きつける構図センス」は、
この巨大な歴史画のなかにも鮮やかに活かされています。
【視線誘導のルート】
1. 手前右下:息をひそめて身を隠す「男女の姿」
↓
2. 画面中央:赤く染まる「過酷な状況の村」
↓
3. 夜空の上部:古代神話における「最高神と神官」の姿
息をのむ「人間のリアルな表情」
鑑賞者と最初に目が合うのは、画面右下にしゃがみ込んでいる農民の夫婦です。
白い服を着た二人は、難を逃れようと静かに身をひそめています。
特にその見開かれた瞳には、いつ脅かされるか分からないという生々しい不安が伝わってきます。
平穏を揺るがす「炎の赤」
画面左から中央に目をやると、地平線が赤く染まっています。
これは争いや混乱によって燃え盛る村の炎であろう姿です。
手前の青い静けさと奥の赤い光の「色の対比」が有ることで、
より一層その過酷さを際立たせているように感じます。
3. 上空に浮かぶ3人の影
夜空を見上げると、現実の風景の上に巨大な3人の人物が幻想的に描かれています。
- 中央の人物(最高神スヴァントヴィト)・・・古代神話における最高神。本来は人々を守るはずの神ですが、ここでは民衆の試練を悲しそうに見下ろしています。
- 右側の男性(武力の象徴)・・・自分を守るために全力を尽くす血気盛んな若者です。
- 左側の神官(平和の象徴)・・・手前で身をひそめる男女に対し、神に「どうか彼らに平穏と自由を与えたまえ」と祈りを捧げています。
ミュシャは上空にこの神官を描くことで、
「どんなに厳しい時代であっても、いつか平和と自由を手に入れる日が来る!」
という未来への希望を込めたメッセージを投げかけているのです。
試練の時代から始まる「平和への祈り」
「私の仕事の目的は、壊すことではなく、常に創造し、架け橋を架けることでした。
なぜなら、人類はお互いをよく知ることで、より簡単に歩み寄ることができると信じているからです。」
(アルフォンス・ミュシャ、1929年に『スラヴ叙事詩』をプラハ市へ寄贈した際に残した言葉より)
ミュシャは『スラヴ叙事詩』の始まりに、輝かしい勝利の姿ではなく、
過酷な時代に耐える人々の姿を選びました。
時代の波に翻弄されながらも、ただ平穏に暮らしたいと願う人々。
『原郷のスラヴ人』で描かれた暗闇と試練は、単なる悲劇の記録ではなく、
「私たちはこの過酷な歴史から出発し、平和を築いてきたのだ」という、
未来の人々に向けたメッセージが込められているのです。
第1作目『原郷のスラヴ人』は、ミュシャが全20枚の絵を通して一番伝えたかった
「争いを乗り越え、みんなで平和に暮らしたい」
という願いのスタート地点となる、とても大切な作品とも言えるのではないでしょうか。
今回もここまでお読み頂きまして、
ありがとうございました!